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ジョン・宋博士の真なる回心

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

THE REAL CONVERSION OF DR. JOHN SUNG
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年6月6日、土曜日の夜の説教

“人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか”(マルコによる福音書第 8章36節)。

2009年6月4日は、“天安門事件”の20周年記念日に当たります。 1989年、六週間にわたり、何千人もの中国人、多くは学生達が共産党政府に反して、より多くの思考の自由を求め、穏やかな示威運動を行いました。 そうして6月4日の早朝に中国政府の軍隊は、何千人ものデモ隊に対して無差別発砲し、数千人もの数え切れない死者と更に何千もの負傷者を出しました。 ホン・ユウジアンは、ペンシルバニア大学の留学生であった当時、テレビ放送を通して北京での暴力の展開を目の当たりにしました。 天安門事件の虐殺は、科学そして民主制に対する彼の期待に疑問を抱かせ、彼はクリスチャンへと導かれたと述べています。  

彼は、天安門事件の虐殺は、彼自身と他の人達に、自らの罪とキリストの必要性を知らせたと言っている。“私は、神がその事件を用いて、道を整わせ中国の人々の心を準備されたと思う”(World Magazine, June 6, 2009, page 38)。

ワールド・マガジンはこのように書いています、

中国でのキリスト教の伸展率は20年以上にわたって爆発的に急増している。専門家達は急激な都市化そしてキリストを奉ずる感化者の増大などを例証として挙げている。 OMFインターナショナル(前China Inland Mission) は、中国に7千万人あまりのクリスチャンを推定している。1949年[共産党が国家を奪取した時点]におけるプロテスタントのクリスチャンは、百万人以下であったと、この団体は述べている(同著)。

統計学者、クリストファー・ケイガン博士(Dr. C. L. Cagan)は、現在、中国では一日24時間、毎時間、700人程の回心者を生み出していると推定しています。 

中国におけるキリスト教の歴史は、あらゆる国のクリスチャンにとって正に興味を注がれるべき事です。 中国の現代の宣教の動きは、ロバート・モリソン(Robert Morrison、1782‐1834)によって始まったと言えるでしょう。 モリソンは1807年に、ロンドン・ミッショナリ・ソサイエティー(London Missionary Society)によって中国へ派遣されました。 彼の仲間であるウィリアム・ミルネ(William Milne)に援助され、彼は1821年に聖書の全てを中国語に翻訳しました。 中国での27年間に、ごくわずかな中国人が洗礼を受け、彼らは皆忠実なクリスチャンとして留まりました。 モリソンの聖書の中国翻訳と福音に関する書物の出版は、中国の福音キリスト教の土台となりました。  

1853年に、イギリスの医師ジェイムス・ハドソン・テイラー(James Hudson Taylor)は中国へと航海しました。 1860年に彼は、今日オーバーシーズ・ミッショナリ・フェローシップ(Overseas Missionary Fellowship)として知られている、チャイナ・インランド・ミッション(China Inland Mission)を設立しました。 ハドソン・テイラーの仲間達は、後に中国大陸全土へと広がって行きました。 ハドソン・テイラーは、1905年にチャンシャで亡くなりました。 

1901年に、ジョン・宋(John Sung)は生れました。 彼は、中国の歴史上、最も偉大な伝道者として知られました。 彼の説教の下で回心した何千人もの人々は、1949年に共産党主義者が政権を奪取した後も、キリストに忠実でした。 過去60年間、中国のクリスチャンの数は、近代の歴史上で最も偉大なキリスト教のリバイバルへと爆発的に急増しました。 今晩私はジョン・宋博士について注目すべき話をします。 私はまず、エルジン・モイヤー(Dr. Elgin S. Moyer)によって書かれたジョン・宋の生涯の概略から始めます。 

中国に於いて有名な伝道者として知られたジョン・宋(1901-1944)は、メソジスト教派の牧師の息子として中国福建省で生れまた。九歳の時にキリストを受け入れた[?]。聡明な学生であった彼は、ウェスリアン大学(Wesleyan University)、オハイオ州立大学、そしてユニオン神学校(Union Theological Seminary)で学んだ。化学博士号を習得後、中国へは教壇に立つのではなく福音の言を説教するために戻った。15年余りをかけて、中国大陸ならびに隣接の国々で、稀に見る力と影響力をもって伝道活動をした(Elgin S. Moyer, Ph.D., Who Was Who in Church History, Moody Press, 1968 edition, p. 394)。

さて、これはジョン・宋の生涯の短な描写です。 より詳しく見てみるならば、私は彼が9歳の時に回心したとは思いません。 1927年2月まで彼が回心していた、と私は思いません。 

ジョン・宋自身、彼が何年か後にアメリカで霊的な難局に陥った時まで、彼は回心していなかったと信じています。 彼が9歳の時、福建省の故郷(Hinghwa)でリバイブルが起こりました。 そこで一ヶ月の間に、約三千人の人々が信仰告白をしました。 聖金曜日の朝、彼は“ゲツセマネの園のイエス”という説教を聞きました。 その説教者は、眠りについた弟子達と恐れのないイエスを比べました。 説教の終りに多くの人々は、悲しみで泣き崩れました。 メソジスト教派の説教者の9歳の息子、ジョン・宋もその中の一人でした。 ジョン・宋はそこで自分の生涯をイエスに“捧げた”のですが、そこで彼は真に回心していなかったように私には思えす。 以前の私個人の牧師で、同じく父親が説教者であったティモシー・リン先生(Dr. Timothy Lin)と同様、ジョン・宋は、13歳の時に説教を初め、彼の父親の助手となりました。 しかし、リン先生と同じく、彼はまだ真の回心を体験していませんでした。 彼は勤勉な学生であり、高校をトップで卒業しました。 この間彼は“少年牧師”として知られていました。 しかし、彼のこれらの全ての熱意と活動にもかかわらず、彼の心は完全に満されていませんでした。 彼がしていた奉仕を、彼は“カワセミの羽の空色の如く壮観、夏の群葉の如く豊富、しかし、主イエスに捧げる新たな成果を引き抜く事さえまったく無く”という風に描写しています(Leslie T. Lyall, A Biography of John Sung, China Inland Mission, 1965 edition, p. 15)。  

1919年、宋博士は18歳になり、アメリカへ渡米を決心しました。 そしてオハイオ・ウェスリアン・ユニバーシティ(Ohio Wesleyan University)から授業料免除で入学を認められました。 彼は、医学部進学課程、そして神学部進学課程のカリキュラムを初めましたが、神学課程を放棄し、数学と化学を専攻する事を決心しました。 彼は教会へ毎週通い学生の間で伝道隊を編成しました。 しかし、彼の最後の課程で彼は聖書研究と祈りを怠り初め、また彼の試験用紙の一つをごまかしました。 彼は1923年に300人のクラスの首位の4人のうちの一人として優等で卒業しました。 彼はゴールド・メダルを授与され、物理学と化学については、主要な学者達による独占的な団体、全米優等学生友愛会に応じて選ばれ、賞金が授与されました。 そしてまた彼は、奨学資金において大いなる優遇を象徴する「貴重な鍵」の紋章が与えられました。 

彼は、ハーバード大学を含めた多くの有名な大学から奨学金提供の提示がされましたが、彼はオハイオ州立大学の化学の修士課程の為の奨学金を受入れました。 彼は9ヶ月間でその課程を終えました! 彼は、ハーバード大学から医学研究の為の奨学金も提供されました。 彼はある神学校で研究の為のもう一つの奨学金を提供されました。 彼は神学を学ぶべきであるとは感じていながらも、彼にまとった名声は、彼の奉仕者となる望みを遠ざけました。 彼はオハイオ州立大学で化学の博士号の教科課程を始めました。 彼は博士号をたかだか20ヶ月で終えたのです! そうして彼は博士号を授かった初の中国人となりました。 彼は“オハイオ州で最も名の知れた学生”として新聞にも載せられました。 “しかし、心の奥底には平穏を感じていなかった。 霊的な不穏の上昇は、それ自体が深い憂うつ状態であった事を示している”(Lyall, ibid., p. 22)。  

この期間に彼は、自由主義の神学、そして彼らの“社交的な福音”の教えによって影響を受け初めました。 自由主義的神学は、イエスは立派な模範であるが救い主ではない、と言ったような事を教えています。 それは、ジョン・宋が9歳の時に、彼は“イエスは立派な模範であるが救い主ではない”と考慮していたように私には思えます。 それが原因で当時、彼は誤った回心を体験していたのです。 しかしなお且つ、神は彼を使命していました。 ある晩、彼が一人の時に、“人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか”と神からの御声を聞いたように彼には思えました。 

翌日、彼は自由主義のメソジスト教派の教授と会話を交わしました。 彼はそもそも神学を学ぶ為にアメリカへ渡米した事をその教授に語りました。 その教授は、ニューヨークへ行き、極端に自由主義であるユニオン神学校の下で宗教を学ぶよう、彼を促しました。 多少躊躇しながらも彼は行く事を決心しました。 ユニオン神学校では、彼は全奨学金と十分な生活費を与えられました。 後に、彼は聖職には興味が無かったけれども、彼の父親を満足させるだけの理由で、一年間神学を学び、その後で化学の分野に戻る事を望んでいたと言っています。 彼の心は混乱とあいまいさに満ちていました。

1926年の秋に、ジョン・宋博士は、ユニオン神学校に入学しました。 そこでは極度な自由主義派のヘンリー・スローン・コッフィン博士(Dr. Henry Sloane Coffin)が学長として就任した直後でした。 講義者達の間には、“聖書の現代的な取り入れ法(The Modern Use of the Bible)”、“ヒトなる神(The Manhood of the Master)”などのようなファンダメンタリスト派に反する書物の著者、ヘンリー・エマーソン・フォスディック博士(Dr. Harry Emerson Fosdick)のような確固たる自由主義者達がいました。 彼の最も有名な出版書には、“Shall the Fundamentalists Win?”( 1922年)でした。 彼は、ラジオ放送を通して、キリストの身体におけるよりがえりと聖書の真実さに反して毎週説教しました。 その神学校は、聖書への批判と福音主義神学に対する拒絶の温床でした。 “科学によって正当化されない聖書における全ての出来事は、信じる価値がない事として拒否された。 創世記は史実ではなく、非科学的な奇跡の所信とされている。 キリストによる身代わりの死、そして身体ごとのよみがえりが否定されている半面、史実なるイエスは見習う為の理想を表している。 祈りは多くの場合主観的に価値あるものと見なされていた。 そのような見解に(不同意する事)は、見下され、嘲笑の対象となった”(Lyall, ibid., pp. 29-30)。

宋博士は、彼自身の知的力をもって自由主義神学の研究に没頭しました。 その年は最高成績を上げましたが、キリスト教から離れ仏教や道教の研究に打ち込みました。 彼は、個人否定が彼に平安を与えてくれることを願って、仏教徒の教本を自分の部屋で唱える始めたのです。

このような心の状態の中、彼は中国人のクラスメートと親しくなりましたが、中国の婚約者がいる事実は、彼にその友人関係を解消させました。 彼は人生に耐えられなくなりました。 彼はこう書いています、“自分は眠る事も食べる事さえもできなかった・・・心は最も深い不幸せで満ちた”。 神学校の主任は、彼は継続的なうつ病の状態であったと記している。

彼が、ニューヨーク市のファースト・バプテスト教会のファンダメンタリストの牧師であるホルデマン博士(Dr. I. M. Haldeman)の説教を他の生徒と一緒に聞きに行ったのは、このころでした。 ホルデマン博士の有名な言葉で“処女生誕を信じないものは、聖書のキリスト教を拒否しているのである”があります。 ホルデマン博士は、ヘンリー・エマーソン・フォスディックとユニオン神学校とは、間接的には対極の場にいました。 ジョン・宋は興味半分で彼の説教を聞きに行きました。 しかし、ホルデマン博士はその晩説教をしませんでした。 代わりに15歳の少女が自分の証をしました。 彼女は聖書の聖句を読み、キリストの十字架での身代わりの死について話しました。 宋は、神の存在を感じたと言いました。 彼の神学校のクラスメートは愚弄しましたが、彼自身、あと四晩続けて伝道集会に行きました。

彼は、その集会で感じた力を発見するためにクリスチャンの自伝を読み始めました。 神学校のある学期を通して、キリストの十字架での身代わりの死に強く反対する講義が行われました。 ジョン・宋は、その講義の終わりに立ち上がり、他の生徒がいる中、教授に答えました。 最後に、1927年2月10日に、彼は真の回心を経験しました。 “彼は、彼の人生に犯した全ての罪が暴かれたのを見た。 最初は、それから逃れられる道はないと思えた。 そして、彼は地獄へ下らなければならないことを知った。 彼はそれを忘れようと試みたが、出来なかった。 彼の罪は彼の心を刺した・・・彼はルカによる福音書の23章の十字架の話のところを開いた。 そして、それを読み続けていく内に、その話が真実味をおびてきた。 彼は、その十字架の前にいて、キリストの御血でもって罪から洗い清めてもらおうと懇願しているように彼には思えた・・・彼は涙を流しながら祈りを真夜中になるまで捧げた。 そうして、彼は、‘子よ、あなたの罪はゆるされた’と言っている声を聞いたように感じた。 そして、彼の肩に圧し掛かっていた彼の全ての罪は地に落ちたように思えた・・・彼は‘ハレルヤ!’と叫びながら飛び跳ねた”(Lyall, ibid., pp. 33-34)。 彼は寮の中を叫びながら、そして神を賛美しながら走ったのです。 ついに、彼は、クラスメートをはじめその神学校の教授までをも含めた全ての人に対して、キリストの必要性を話し始めました。

神学校の学長は、研究熱心のあまり彼は気が狂ったと思い、彼を精神病院の病棟に送り込みました。 彼はそこで6ヶ月間過ごしました。 その期間、彼は聖書を最初から終わりまで、40回読みました。 “精神病院は、よってジョン・宋の真の神学校になったのである!”(Lyall, p. 38)。 彼の状態は良好に向かい中国に戻れるほどになり、最終的に病院から解放されました。 ジョン・宋は、学校で使用した、“悪魔の書物”と彼が呼ぶ神学書を焼き捨てた時、神学校との係わり合いを絶ちました。 ユニオン神学校は、その後二度と、この中国史上偉大な伝道者と関わりがあった事を口にすることはありませんでした。

中国への帰路、彼は船上で、中国へ帰国後には大学で教職に就くことができることを知りました。 “ある日、航海が終わりに近づいた時、ジョン・宋は船内に戻り、鞄から卒業証書、勲章、数々の紋章を取り出し、海の中に放り込んだ。 博士号の証書だけは、父を満足させるためそのまま持ち帰った”(Lyall, p. 40)。

1927年の秋に、ジョン・宋博士は上海の港に降り立った、そして、中国史上、最も有名な伝道者となりました。 彼は、しばしば“中国のウェスリー”と呼ばれています。 ジョン・宋は非常に説得力のある説教者となりました。彼の説教の下で、数万人が回心しました。 彼は中国で何万人もの人々に向かって説教し、またビルマ、カンボジア、シンガポールそしてフィリピンなどでも説教しました。 彼は中国においても常に通訳者を用いて説教しました。 ホィットフィールドと同様、ジョン・宋は、彼の説教に応えるほとんどの人達に対して、個人的にカウンセリングをしました。 “中国と台湾の今日のクリスチャン達は、宋博士の奉仕に多く与っている。 彼は、神が21世紀の東洋に与えてくださった偉大な贈り物の一つである”(T. Farak, in J. D. Douglas, Ph.D., Who’s Who in Christian History, Tyndale House, 1992, p. 650)。 ジョン・宋博士の伝記書の購入に関しては、ここをクリックして下さい。 “The Journal Once Lost”と題されたジョン・宋博士の日記の購入に関しては、ここをクリックして下さい。 尚、これらの出版書は、全て英語のみとなっています。

1944年、彼は、42歳で癌で他界しました。

“人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか”(マルコによる福音書第8章36節)。

(説教終了)
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