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キリスト中心の聖霊の働き

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

THE HOLY SPIRIT IS CHRISTOCENTRIC
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2009年5月10日、主の日の朝の説教

“それはわたしについてあかしをするであろう”
(ヨハネによる福音書第 15章26節).

私達は、聖霊について多く語られるキリスト教史の一時代に住んでいます。 しかし、それと同時に、西洋の国々では伝統的なリバイバルは見られません。 教会は聖霊を重視していますが、そのことは過去にもそうであったように、真のリバイバルをもたらしていないのです。 私達のテキストはそのようになった理由の観点を与えています。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第 15章26節)。

真のリバイバルは常にキリスト中心であり、それはキリストが説教の中心であると言う事です。

宗教改革においては、リバイバルは義認を重視する中で生じました。 ルターの説教は、キリストにおける信仰を通してのみ、私達は義とされ、人は正しい行いによって神の御前に自分自身を義とすることは出来ない、キリストへの信仰を通してのみ、あなた方は義とされるという事を重視しています。 その強調が神によって祝福され、偉大なリバイバルが生じました、なぜなら、キリストがその説教の中心であったからです。

18世紀に起った偉大な最初の大覚醒(宗教の目覚め)では、新生について強調が成されている中でリバイバルが起こりました。ホイットフィールド(Whitefield)、ウェスリー(Wesley)、そして他の説教者達の説教は、再生、新生を重視しました。 それらの説教は、人々がイエス・キリストへの信仰を通してのみ、新たに生まれる事が出来ると言う事を重要視しました。 キリストが説教の中心だったのです。 その新生についての強調は、19世紀の中頃の第二と第三の大覚醒にまで続きました。

しかし、1859年の第三の大覚醒の後、その強調は徐々にキリストによる働きから遠ざかり、人の行いへと変わっていきました。チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)と彼に賛同する説教者達は、による働きに代わって、の“決断”を重視しました。 

20世紀になり、この、人を中心とする“決断主義”は冷め、効果がなくなってきました。 多くの人々は、神の業についてほとんど重要視していない事に気がつきました。 神はこのような中でどこにいられたのでしょうか? そのため、潮流は逆方向に展開され、彼らは神の業を強調し始めました。 しかしそうしながらも、彼らの多くは致命的な間違いを犯しました。 それはキリストの代わりに聖霊を重視した事でした。 彼らの説教はもはやキリスト中心ではなくなってしまったのです。 キリストの名は述べられても、彼らの説教の中心となったのは、実は聖霊だったのです。 

今日では、聖霊についてもっぱら専念しているテレビ番組などがあります。 また、聖霊を謳う事に没頭している多くの教会と動向が見られます。 この動向の中で、彼らの間では聖霊についてのひっきりなしの説教がなされています。 それらの人々は、誠実に奉仕をしているのかもしれませんが、彼らは誤っていると私は思います。 私達のテキストは、なぜ彼らが誤っているかを示していると私は思います。 キリストはこのように言われました、

“それ[聖霊]はわたし[キリスト]についてあかしをするであろう”
      (ヨハネによる福音書第 15章26節)。

それを第16節のキリストの言葉と関連付けてください。

“それは自分から語るのではなく”(ヨハネによる福音書第16章13節)。

そして、キリストがその次の節で言われた事を思い出してください、

“御霊はわたしに栄光を得させるであろう”
       (ヨハネによる福音書第16章14節)。

これらの聖句は、聖霊についての正当性に欠き、聖書に基づいていないことを強調する今日の福音主義派キリスト教の分枝の誤りを示しています。  

“それは自分から語るのではなく”
      (ヨハネによる福音書第16章13節)。

“御霊はわたしに栄光を得させるであろう”
      (ヨハネによる福音書第16章14節)。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第15章26節)。

聖霊の真の働きはキリストをまさに私達の説教の中心とする事、そしてキリストを私達の救い、また私達のクリスチャン生活のまさに中心とする事です。

聖霊についての、聖書に基づいていないこの強調に対する反動が起りました。 しかし、現在に至って、その反動は聖書の知識と教義を重要視する方向へ変わって行きました。 それらの説教者は、“聖霊について多く語られ過ぎている。 私達が重視する必要があるのは、聖書研究や教義である”というように言っています。 もう一度言いますが、彼ら多くの説教者達は誠実に奉仕をしているのでしょうが、彼らは誤っているのです。 イエスはこう言われました、

“あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである”
      (ヨハネによる福音書第5章39節)。

そのように、聖書の教義をイエス・キリスト御自身と置き換え、キリストを中心にしていない誤りを知る事が出来ます。 多くのカリスマ派でない団体では、聖書の知識が、しばしばキリスト御自身の知識に取って代わっているのです。

聖霊と聖書研究は、重要なことではありますが、私達の説教の中心となるべきではありません。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第15章26節)。

聖書の知識そのものは重要ですが、私達のメッセージの中心となるべきではありません。 聖書は私達をキリストに向けさせるのです。

“この聖書は、わたしについてあかしをするものである”
      (ヨハネによる福音書第5章39節)。

もしくは、使徒パウロはそれについてこのように言っています、

“それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている”
      (テモテへの第二の手紙第3章15節)。

キリスト・イエスが、私達の全ての福音伝道の説教の中心となるべきです! 

ヨハネによる福音書第5章39節にある本来のギリシャ語の“あかしする”は、“目撃する”という意味です。 聖霊の働き、そして聖書の教えは、“世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネによる福音書第1章29節)であるキリストについて“目撃する”、もしくは“あかしする”べきです。 

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第15章26節)。

ヨハネによる福音書第16章には、聖霊が不信者に対してキリストを中心とするために、その人の心に働かれる三つの事が示されています。 聖霊がするこれらの三つのことを注意深く考えて見たいと思います。 もしまだキリストに回心をしていないのであれば、あなた方は注意を払って聞き入るべきです。

I. 最初に、聖霊はあなたをキリストへ向かせる為に罪を悟らせる。

ヨハネによる福音書第16章8-9節には、

“それ[聖霊]がきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである” (ヨハネによる福音書第16章8-9節)。

“目を開く”という言葉は、ギリシャ語の“elencho”から訳されています。 レオン・モーリス(Leon Morris)によると、それは次のような意味を表わしています、

“敵対者を納得させる、間違いを証明する目的の為に、暴露すること、悟らせること、厳しく詰問すること、特に法的な処置において使われる”(Leon Morris, The Gospel According to John, London: Marshall, Morgan and Scott, 1972)。

それは、聖霊が、失われた人の心に働く事の正しい描写ではありませんか? 失われた人が回心する前に、そのような事が起る必要はないと言う人達がいます。 彼らは“プレパレーショニズム(preparationism)”と呼ばれるこの働きを軽視しています。 しかし、彼らがこの働きを不必要と見ていることは間違っています。 もし罪人がイエスに来る前に、聖霊が彼の心に働きかける必要がなかったならば、なぜヨハネによる福音書第16章8節から9節で、キリストは聖霊の最初の働きとしてこれを語られているのでしょうか? もし聖霊により罪について目が開かれる事があなた方に必要でないならば、なぜイエスはそれが必要であるように言われたのでしょうか?

 

“それがきたら、罪・・・について、世の人の目を開くであろう”
      (ヨハネによる福音書第16章8節)。

“プレパレーショニズム”に同意しない人達は、罪人の目が開かれる必要がないと言っています。 彼らは、目の開かれていない罪人が、キリストに来る事が出来、また聖霊によって心の目が開かれることなしに救われる事が出来ると言っているのです。 しかし、彼らは間違っています。 彼らが間違っていることは分かっています、なぜなら、イエスがこの働きは必要であると言っているからです。

“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう” (ヨハネによる福音書第16章8節)。

モーリス博士が示しているように、心の目を開く聖霊の働きは、 

“敵対者を納得させる、間違いを証明する目的の為に、暴露すること、悟らせること、厳しく詰問すること、特に法的な処置において使われる”(同著)。

それはまさに、回心において、聖霊が人の心にキリストを受入れる準備をすると言うことです。そして聖霊が成すことを表現する為に、“準備する”という言葉を使っている事に、私はまったく躊躇しません。

失われた罪人の心と思いは、罪によって盲目にされています。ですから盲目は回心していない人の心であり、それ自体を罪とすることを信じないのです。しかし、聖書は失われた人の心はよこしまで、邪道に陥っていると教えています。聖書はこう書いています、

“人の心は悪に道・・・狂気がその心のうちにあり・・・”
      (伝道の書第9章3節)。

もし私達が、自分達の心の奥底を知る事が出来るならば、何とも無謀で、何とも狂気な、そして罪を見い出す事でしょう! もし私達が、毎日のように自分達の心を駆け巡る思いとフィーリングを知るならば、何と言う邪悪なものであるかを見い出す事でしょう! 時には、あなたはそのような事を考える事はありませんか?時には、あなたは自分の思いを恥じいる事がありませんか?

まだ救われていないある若者が私に、“牧師さん、私は常に邪悪な、狂気な思いで満ちています!”と言いました。 あなたはそのように感じた事がありますか?

聖書は、あなたの心は虚偽、そして欺きで満ちていることを教えています。聖書はこう書いています、

“心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪にそまっている”(エレミヤ書第17章9節)。

それは、あなたの心が、イエス・キリストを知ることの無いように、ごまかし、言い逃れ、自己満足、そして自己妄想などで満ちていると言う事です。 あなたは周りの人達を欺いているだけではなく、自分は正しいと考える事で、あなた自身をも欺いているのです。 

あなたがそれを認めるまで、あなたはキリストの哀れみに自分自身を投身する準備は出来ていません。 そしてあなたの堕落した心の邪悪、狂気、欺き、そして不正をあなたに納得させることが、神の御霊の働きなのです。 ですから聖霊は罪についてあなたの“目を開く”のです。 

“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう” (ヨハネによる福音書第16章8節)。

聖霊は、あなたは堕落した罪人であるということを、あなたの心に悟らせる検察官のような働きをします。 彼はあなたの罪をあなたに暴露します。 彼はそれをあなたに示します。 彼は、あなたが犯したある特定の罪を、あなたの思いにもたらすかもしれません。彼はその罪について良心を咎めさせるかもしれません。聖書はこのように言っています、

“これを聞くと、彼らは・・・ひとりびとり出て行き”
       (ヨハネによる福音書第8章9節)。

これが、罪についてあなた自身の良心を悟らせる聖霊の働きなのです。

もしあなたが罪に対して弁解するならば、聖霊は裁判での検察官のようにあなたにその間違いを証明します。 聖霊はあなたの良心を通してあなたは罪深い心を持っていることを悟らせるまで、あなたが心中に“私の本性は罪深い。 私は堕落しており失っている。 私は自分を救う事が出来ない”と言えるまで、聖霊はあなたと論じ合うでしょう。

あなたがこの状態へ来るまで、キリストの福音は遠ざかった過去のことのように、もしくはギリシャ神話の架空の話のように思えるでしょう。 あなたが、邪悪、不正、欺き、そしてあなたの完全なる堕落した心によるよこしまな行為を心に悟らされるまで、あなたの罪の償いの為のキリストの死についてさほど考慮する事はないでしょう。

聖霊が、あなたの邪悪な心、そして本性についてあなたに悟らせる前に、あなたがイエスを非常に好意的に見なすことはないでしょう。

“彼は侮られて人に捨てられ・・・われわれも彼を尊ばなかった”
      (イザヤ書第53章3節)。

確かに、キリストの名前は挙げるでしょう、またはイエスについての聖句を学ぶことはあるでしょう、そして祈る時には、キリストの名を口にするでしょう。 しかし真実は、あなたはキリストから顔を隠しているのです、なぜなら、キリスト無くしては、あなたは堕落しており、罪に定められていることを聖霊があなたに悟らせるまで、あなたは彼に対する真の必要性を理解しないからです。 あなたが堕落していることを心から悟らされる時のみに、あなたはキリスト・イエスによる救いを信じることがまさに必要であることを知るでしょう。 ヨハネの福音書第16章9節の中で、イエスはこのように語られました、

“罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである”
      (ヨハネによる福音書第16章9節)。

ですから、聖霊は、以前はあなたが知らず、また感じなかった罪なる本性について、あなたをそれに悟らせるのです。 聖霊があなたに罪の意識を感じさせるとき、聖霊はキリストを中心に置きます。 罪の意識によって、聖霊はあなたにキリストの“必要性を感じる”ようにさせるのです。 したがって、神の御霊による罪を悟らせる働きによって、あなたにキリストがもっとも重要な方とさせられるのです。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第15章26節)。

II. 次に、聖霊はあなたをキリストへ向かせる為に義を悟らせる。

第10節に注目してください、

“義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである”
      (ヨハネによる福音書第16章10節)。

バーノン・マックギー博士(Dr. J. Vernon McGee)は、このような注解を与えています、

もし私達がただの赦免された犯罪人であるとしたら、私達は、神の御前に立つ事は出来ない。 キリストが、彼の義を私達に覆われた・・・。 キリストは私達の罪を取り除かれただけでなく、御自分の義を加えられた。 もし私達が神の御前に立たなければならないならば、私達はキリストにあり、そしてキリストが私達の義とならなければならない・・・。 キリストは私達の罪の為に引き渡され、そして彼は私達の正当化[義]の為に再びよみがえられた(Dr. J. Vernon McGee, Thru the Bible, Thomas Nelson, 1983, volume IV, p. 473)。

“義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである”
      (ヨハネによる福音書第16章10節)。

イエスがこの世にいた時、 イエスは失われた人々に、彼らは不正であり、御自分の義を必要としている事を示されました。 現在、イエスは天の神の右座に挙げられています。 聖霊は失われた人々に、彼らは不正であり、彼らの命の書にキリストの義が帰せられなければならないことを引き続き示しています。 聖書では、神の義はキリストの忠実さによって私達に帰せられていると書いています。 

“しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている” (ローマ人への手紙第4章5-6節)。

では、ヨハネによる福音書第16章10節のこの聖句に戻って考えて見ましょう。

“義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである”
      (ヨハネによる福音書第16章10節)。

最初に、それは聖霊がイエスは正当な方である事をあなたに悟らせるであろうと言う事です。 イエスは、人々が話していたような、冒涜する方、不正な欺く方ではありませんでした。 五旬節の日に、聖霊は、イエスが実際に正当な方である事をこれらの多くの人々に悟らせました。 ペテロはこう言いました、

“イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった”(使徒行伝第2章22節)。

聖霊は彼らに、イエスは実際“神からつかわされた者”、 義なる方であり、また多くのパリサイ人達が語っていたような冒涜をする者、悪魔にとりつかれた欺く者ではない事を示しました。 聖霊は今日でも同じ働きをします。 聖霊はあなたに、イエスは義なる方で、罪を犯した事のない神の御子であることを示します。 聖霊は、キリストのみがあなたを義とされることを示します。 

しかし、次に、聖霊は、あなたがイエスに来るとき、彼の完璧な、罪のない義はあなたの記録に置かれ、あなたは神の御前に義とされるため、神はあなたの罪を見られず、キリストの義のみが見られるのです。 ある有名な賛美歌が謳っているように、

栄光の響きと共に彼がやって来るとき、
   あぁ、彼の中にいる我を見いだせし、
彼の義のみに着飾られ、
   神の御座の前に完全と立つ。
(“The Solid Rock” by Edward Mote, 1797-1874).

“彼の義のみに着飾られ、神の御座の前に完全と立つ。” 懺悔する罪人に与えられるキリストの身代わりの義を描く、何と完璧な描写か!

キリストは、父の御許に行ってしまいました。 そして、あなたは彼を見ません。 しかし、聖霊は、彼はここにいることを悟らせるでしょう。 聖霊はまた、あなたが彼を信頼するよう悟らせるでしょう。 あなたがイエスを信頼するとき、あなたは彼の義で持って着飾られます。 あなたは、

“キリスト・イエスにあるのは、神によるのである・・・わたしたちの知恵となり、義と聖とあがない・・・”(コリント人への第一の手紙第1章30節)。

“キリストにある”というのは、ノアの箱舟の中にいるということです。ノアは箱舟を造り、信仰でもってその中に入りました。

“信仰によって、ノアは・・・恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り・・・そして、信仰による義を受け継ぐ者となった”
       (へブル人への手紙第11章7節)。

ノアは箱舟に入りました。 その箱舟は彼を神のさばきから守り、彼を安全な場所へ導きました。 キリストは箱舟のようなものです。 あなたが“キリスト・イエスにある”(コリント人への第一の手紙第1章30節)とき、あなたはさばきから守られ、“信仰による義を受け継ぐ者”となるのです(へブル人への手紙第11章7節)。 ノアが箱舟の中で安全であったように、あなたはキリストにあって安全なのです!

ノアが神によって箱舟に入ったように、聖霊はあなたを“キリスト・イエスにある”ようにします。

彼の義のみに着飾られ、
  神の御座の前に完全と立つ。

この世はそれを信じません。 あなたが天国へ行くかどうかはあなたの生き方にかかっている、と語ったカトリック教の司祭のインタビューを最近読みました。 その司祭は、もしあなたが良い生活を送るならば、あなたは天国へ行きますと言いました。

それは、カトリックが信じることと聖書が教えることとの間に生じる主要な違いの一つです。 彼らは、あなたは良い生活を送ることによって天国へ行く、と言います。 しかし、この世の全ての人が信じていることではありませんか? ほとんどすべての人達がそう考えています! しかし、彼らは間違っています。

そして、聖霊が、あなたの罪深いこころはあまりにも堕落していて良い生活を送るには十分ではないことをあなたに悟らせない限り―そして、聖霊があなたはキリストのみの義によって救われなければならないことをあなたに悟らせるまで、その形はどうであれ、それは、あなたが考えることでもあるのです。 あなたはイエスに来なければなりません、そして彼の義を全うしなければなりません、そうでないとあなたは真の意味で救われてはいません。

ノアは、“良い生活を送った”から救われたのではありません! いいえ―彼は箱舟の中にいたから救われたのです! あなたはキリストの中にいなければならないのです! キリストのみがあなたを救うことが出来ます! キリストのみがあなたに彼の正義を与えることが出来ます。 あなたは“キリスト・イエスにある”(コリント人への第一の手紙第1章30節)のでなければなりません。 聖霊のみがそれをあなたに与えることが出来ます。 あなたにはキリストの身代わりの義が必要であることを示すことにより―彼はキリストをあなたのこころと人生の中心に置きます。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
      (ヨハネによる福音書第 15章26節)。

“それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう” (ヨハネによる福音書第 16章8節)。

III. 最後に、聖霊はあなたをキリストへ向かせるためにさばきを悟らせる。

第11節を見てください、

“さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである”(ヨハネによる福音書第16章11節)。

この“この世の君”とはサタンのことです。 イエスがこの節で彼をそう呼んだように、ヨハネによる福音書第14章30節でも、イエスはサタンを“この世の君”と呼びました。 サタンは“空中の権をもつ君”とエペソ人への手紙第2章2節では呼ばれています。 サタンは“君”と呼ばれていますが“王”とは呼ばれていないことに注目してください。 神のみが王です。 しかし、王はこの罪深い世をサタンに“手渡しました”―そして、いつかすぐに、王はそれを取り戻します、なぜなら、神はサタンを統治するからです。

“それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから
       (ルカによる福音書第4章5-6節)。

そうです、神はサタンが一時期“この世の君”になるのをゆるしました。

しかし、ヨハネによる福音書第16章11節では、サタンはすでにさばかれていると言っています、

“さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである”(ヨハネによる福音書第16章11節)。

マックギー博士は、この理知的なコメントを残しています、

これは、さばきはいつか来るという意味だろうか?いや、この節では違う。“さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。”この世の君、サタンはすでにさばかれている・・・われわれはさばかれた世に住んでいる。ある人は、人々が、自分たちはそれをまともに信じない、と言うのを聞く。彼らは、裁判にかけられているようなものである。我が友よ[もしあなたがまだ回心していないのであれば]あなたは裁判にかけられてはいない。神は、なたは失われた罪人であるとすでに宣告されたのである、そして、彼はすでにあなたをさばかれているのである(同書)。

サタンはすでにさばかれました。 このさばきはすぐに遂行されるでしょう。 神はそのようにヨハネの黙示録第20章10節で言われます、

“そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた・・・世々限りなく日夜、苦しめられるのである”
      (ヨハネの黙示録第20章10節)。

ヨハネの黙示録の第20章10節で、彼が予言的に(前もって)見たことは、すでに成就された事実です。 悪魔はすでにさばかれています。 悪魔が火と硫黄との池に投げ込まれのは今後起こる結果です。 サタンは自分の刑が執行されるのを単に待っているのです。 悪魔は、黄泉で永遠の苦しみを味遭うガス室での執行を待つ、死刑囚のようなものです。 

そして、同様に、聖霊は失われた罪人にさばきが彼に臨んでいることを悟らせます。 たった今―あなたはさばきの下にいるのです。

“さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである”(ヨハネによる福音書第16章11節)。

永遠の火炎が待ち構える死刑執行を待つのは、悪魔だけではありません。 あなたもまた死刑囚なのです。 聖霊のみがこの危険をあなたに知らせることが出来ます。 もしあなたがキリスト・イエスにないならば、あなたはさばきに出くわすことをあなたに示すことにより―彼はキリストを中心に置きます。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
      (ヨハネによる福音書第 15章26節)。

聖霊がキリスト中心なのです。 彼は、キリストを、あなたの救いについて全ての点において中心に据えられたのです!

キリストは言われました、

“彼を・・・信じない者は、すでにさばかれている”
       (ヨハネによる福音書第3章18節)。

もしキリストにないならば、あなたはすでにさばかれています。 マックギー博士がそれについてこう語っているように、

我が友よ・・・神は、あなたは失われた罪人であるとすでに宣告している、そして、神はすでにあなたをさばかれている(同書)。

イエスは言われました、

“彼を・・・信じない者は、すでにさばかれている”
       (ヨハネによる福音書第3章18節)。

聖霊は、あなたはすでに神にさばかれていることをあなたに悟らせことを私は祈ります。

“さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである”(ヨハネによる福音書第16章11節)。

御霊があなたの罪深いこころ、朽ちた状態をあなたに悟らせることを私は祈ります。 御霊がキリストの御血と義のみが、神のさばきと黄泉の永遠の火炎からあなたを救うことができることをあなたに悟らせること、そのことを私は祈ります。

それゆえ、聖霊の偉大な働きは、あなたにイエス・キリストが必要であることを悟らせるように。 彼はあなたの罪の贖いのために十字架で死にました。 彼の御血はあなたの罪を洗い流すことが出来ます。 聖霊があなたをキリストに向かせます。

“それはわたしについてあかしをするであろう”
       (ヨハネによる福音書第 15章26節)。

あなたがキリストに来て、彼のみによって救われることを私は祈ります。 われわれバプテストの先駆者同様、宗教改革者、清教徒、そして第一大覚醒当時の伝道者が教えたことは、それなのです。 この全く大事な主題についての神の言からきた彼らの教えを拒否するのは、安全なことではありません。 キリストの尊い御血でもって清められるために、聖霊があなたを彼に導かれるように!

(説教終了)
ハイマース博士の説教は毎週インターネットでご覧になれます。
www.realconversion.com “Sermon Manuscripts” をクリックしてください。

クレイトン L. チャン医師による、説教前の朗読:ヨハネによる福音書第16章7-11節。
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏による説教前の独唱:
“Yes, I Know!” (by Anna W. Waterman, 1920).

要 綱

キリスト中心の聖霊の働き

R. L. ハイマース、Jr. 神学博士 著

“それはわたしについてあかしをするであろう”
(ヨハネによる福音書第 15章26節).

(ヨハネによる福音書第16章13-14節;第5章39節;
テモテへの第二の手紙第3章15節;
ヨハネによる福音書第1章29節)

I.   最初に、聖霊はあなたをキリストへ向かせる為に罪を悟らせる。
ヨハネによる福音書第16章8-9節;伝道の書第9章3節;
エレミヤ書第17章9節;ヨハネによる福音書第8章9節;
イザヤ書第53章3節。

II.  次に、聖霊はあなたをキリストへ向かせる為に義を悟らせる。
ヨハネによる福音書第16章10節;ローマ人への手紙第4章5-6節;
使徒行伝第2章22節;コリント人への第一の手紙第1章30節;
へブル人への手紙第11章7節。

III. 最後に、聖霊はあなたをキリストへ向かせるためにさばきを悟らせる。
ヨハネによる福音書第16章11節;第14章30節;
エペソ人への手紙第2章2節;ルカによる福音書第4章5-6節;
ヨハネの黙示録第20章10節;ヨハネによる福音書第3章18節。