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絶された預言・ことば
(イザヤ書第53章からの説教、その二)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

THE REJECTED REPORT
(SERMON NUMBER 2 ON ISAIAH 53)
by Dr. R. L. Hymers, Jr.

ロスアンゼルスのバプテストタバナクル教会にて
2007年2月18日、主の日の晩の礼拝での説教

A sermon preached on Lord’s Day Evening, February 18, 2007
at the Baptist Tabernacle of Los Angeles

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

イザヤがキリストの福音を預言している事に疑いはありません。 私達が今朝52章の最後の三節から理解したように、この預言者は、顔だちは“そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである”(イザヤ書52章14節)とある、救い主についての奉仕を預言しています。 これは私達の罪のために殴られ、そして十字架につけられ、死からよみがえられた、“高められ、あげられ、ひじょうに高くなる・・・”(イザヤ書52章13節)イエスの描写です。 しかし、ここの私達のテキストの中で、この預言者はわずかな人達がこの福音のメッセージを信じる事を深く嘆き悲しんでいます。

私のもと牧師、テモテ・リン(Dr. Timothy Lin)のクラスメイトであり友人であった、旧約聖書の専門学者エドワード・ヤング博士(Dr, Edward J. Young)は、私達のこのテキストについて次のように解説しています。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”

ヤング博士は、これは“疑問よりもむしろ感嘆である。それは否定的な答えは要求していない。 しかし、単にこの世の、特にユダヤ人達の間での[わずかな数の]本当の信者の関心を引く為にもくろまれました・・・その預言者は、彼自身の民を代表する者であり、ごくわずかな者達が信じる事を告げ、また落胆を表現している。”(Edward J. Young, Ph.D., The Book of Isaiah, William B. Eerdmans Publishing Company, 1972, volume 3, p. 240)

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”

“聞いたこと”とは、“聞かれたこと”または“公に告げられた言葉”という意味です。 ルターはそれを“我々の説教”とも訳しています。(Young, ibid.) “だれがわれわれの説教を信じ得たか?” そのテキストでのこれに対応した表現は、“主の腕は、だれにあらわれたか”です。 “主の腕”とは、主の力を示した表現です。 だれがわれわれの説教を信じ得たか? 主の腕は、だれにあらわれたか? だれにキリストによる救いの力はあらわれたか?

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

この節は、あなたは最初に福音の説教を信じなければならない、そうして、キリストを通して神の力により改心しなければならない事を言っています。 それでも、この預言者のその疑問は、数少ない者が信じ改心するという事を示しているのです。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

Ⅰ 最初に、キリストの地上での奉仕の間にわずかな人達が信じ救われた。

イエスはラザロの墓に来られました。 その人は死んですでに四日過ぎていました。 イエスは彼らに、“石を取りのけなさい”(ヨハネによる福音書第11章39節)と言われました。 ラザロの姉妹は彼を止めようとして、“主よ、もう臭くなっております。 四日もたっていますから”(同著)と言いました。 しかし、彼らはイエスに従い、墓にはめてあった石をとりのけました。 そして、イエスは“大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。 すると、死人は手足を布でまかれ,顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。”(ヨハネによる福音書第11章43-44節)

“そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を招集して言った、「この人が多くのしるしを行っているのに、お互いは何をしているのだ。”(ヨハネによる福音書第11章47節)

彼らはイエスのなされた多くの奇跡を見、そして、みんなが彼らにではなく、イエスに従う事を恐れました。

“彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。”(ヨハネによる福音書第11章53節)

その祭司長達とパリサイ人達は共に集まり、イエスを追い払う最もよい方法、“殺そうと”考え始めました。

“このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。 また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。(ヨハネによる福音書第12章37-38節)

彼らは、イエスが奇跡的に五千人の人々に食べ物を与えられたのを見ました。 彼らは、イエスがらい病者を癒し、盲目の目を開かれたのを見ました。 彼らは、イエスが悪霊を追い出すのを見、なえた者を強健にされたのを見ました。 彼らは、イエスがやもめの息子が死から生かされるのを見ました。 彼らは、イエスが水をぶどう酒に変えられるのを見ただけでなく、イエスが次のように語られたのを聞きました。

“諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。”(マタイによる福音書第9章35節)

それでもなおかつ、イエスがラザロを死からよみがえらされた時、“彼らはイエスを殺そうと相談した”(ヨハネによる福音書第11章53節)のです。

“このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。 それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、「主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。 また、主のみ腕はだれに示されたでしょうか」。(ヨハネによる福音書第12章37-38節)

そうです、少数の人々のみが、キリストのこの世での奉仕の間、信じ、そして改心しました。

Ⅱ 次に、十二使徒の時代にはわずかな人達が信じ改心した。

ローマ人への手紙第10章11-16節を開いてください。 立って、そのすばらしい節を読んでください。

“聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。 同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。 聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。 宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。 「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いて あるとおりである。 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。 イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。”(ローマ人への手紙第10章11-16節)

着席してください。

12節で、聖書のこの引用された文面は、次のように言っていることに注目してください。

ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。 同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。”(ローマ人への手紙第10章12節)

これは、イエスが天に上がられた後30年より少し前に、使徒パウロによって書かれました。 ですから、パウロは使徒行伝の後の部分で書いています。 彼はユダヤ人と異邦人両方に向かって話しています。 その一方で、ほとんどイエスはユダヤ人にのみに向かって話されました。 それゆえ、パウロは、“ユダヤ人とギリシャ人との差別はない”と言ったのです。 すべての人はキリストが必要だからです!

それにもかかわらず、多くのユダヤ人ではない聴衆に向かって、パウロはイエスが語られた同じ言葉、イザヤ書の53章1節からの引用を話し、比較的少数の異邦人のみが信じた事に深く嘆き悲しみました。 そして、パウロは応用として、その預言者が、大多数の異邦人は、この福音に対して、ユダヤ人よりもほんの少しだけ多く反応するであろう、と言ったことを示す為に、イザヤ者53章1節を引用しました。 パウロは、この事を示すためにイザヤの訴えから引用しています。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

異邦人はユダヤ人よりも福音を受け入れやすかったのです。 そうであっても、パウロや他の使徒達が説教をしていた時に、比較的少数の異邦人のみがイエスを信じました。 使徒行伝の中で知るように、十二使徒の時代には偉大なリバイバルがあったけれども、これらのすばらしいリバイバルは比較的少数の異邦人のみをキリストによる救いにもたらせました。 伝道はローマ人の間でさえも大変な奉仕でした!

キリストと十二使徒達は、彼らが説教した人達の内にほんの小数の改心者に出会っただけでした。 そして、第一世紀のクリスチャン達は、少数(マイノリティー)であったことに議論の余地はありません。 そして、彼らは迫害された少数(マイノリティー)でした! ですから、キリストとパウロの両者が、福音に対してほとんどの人達が拒絶をするという、すなわち、彼らの説教を聞いたほとんどの人達が改心しないまま留まる事を説明する為に、私達のテキストを引用しました。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

そして、この事はクリスチャンの歴史を通して真実のです。 絶えず、常に、少数の人達だけが福音を信じ改心しました。 これは現在の世の中でも真実です。 何も変わってはいません。 それが私達の最後の要点へと導きます。

Ⅲ 最後に、今日、わずかな人達は信じ、改心している。

私達のこの時代には、この哀嘆な疑問にあるイザヤの悲しみの現実性にしばしば直面します。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

悲しい事に、今日わずかな人が私達の説教を信じ、そしてわずかな人がキリストの力によって救われることを、私達は言わなければなりません。 私達の愛する家族でさえもしばしばキリストの福音を拒否します。 そして、あなた方の多くは、説教を聞かせる為に私達が教会に連れてくる人達のうち、わずかな人達のみが改心する事を知っているでしょう。 その事について三つのコメントをしましょう。

(1)   最初に、聖書のどの箇所で、ほとんどの人達が救われると告げられていま すか? 告げられていません。 事実、イエスはその逆を語っています。 彼はこのように言われました。

“狭い門からはいれ。 滅びにいたる門は大きく、その道は広い。 そして、そこからはって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。 そして、それを見いだす者が少ない。”(マタイによる福音書第7章13-14節)

それを見いだす者が少ないのです! 私達の伝道による努力が望んでいたよ りもわずかな結果に終わった時、私達は常にそれを心に止めておかなければな りません。

そして、次にこれに関して私が言いたい事は、

(2)  私達の伝道の目的は、何人の人が改心したかにあるのではありません。 その応答が多かろうが少なかろうが、私達の目は、決して何人の人が改心したかに向けられてはなりません。 私達の目的は、神に従うという事にあります。 私達が伝道に出ていく際、私達の目は常にに、そして、への従順に向けられるべきです。 そして、私達が福音を説教する時、私達の目は常にに、またへの従順に向けられるべきです! キリストは私達にこのように語られました、

“全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えよ。”(マルコによる福音書第16章15節)

それが、キリストが私達にするように言われたことです。 そして、人々が聞こうが聞くまいが、彼らが改心しようがしまいが、私達はそれをしなければならないのです。 私達は伝道をしなければなりません、なぜなら、キリストがそうするように言われたからです! 私達が成功したかどうかは、人がそれに答えたかどうかにあるのではありません! けっしてそうではありません! 私達の成功は、いかにキリストに従順であったかにあります。 それゆえ、彼らが福音を信じようが信じまいが、私達は伝道に出て行くのです!

そして、これについて三番目の事が続きます。

(3)  あなたはキリストを信じますか? あなたはキリストに改心していますか? あなたは信仰でもってキリストに来ますか? たとえ、あなたの家族や友人の誰一人改心していなくとも、あなたはキリストを追い求めますか? あなたは彼に来ますか? キリストがこのように言われたことを覚えていなさい。

“信じてバプテスマを受ける者は救われる。 しかし、不信仰の者は罪に定められる。”(マルコによる福音書第16章16節)

あなたはイエスの来て、改心をし、それから洗礼(バプテスマ)を受けますか? あるいは、あなたは救い主を拒絶した大多数の一人になり、炎かの黄泉で永遠に滅びますか?

“しかし、不信仰の者は罪に定められる。”(マルコによる福音書第16章16節)

私達の祈りは、あなたが炎かの黄泉で永遠に滅びる大多数の一人になるのではなく、地球上のローカルの教会で、私達、すなわち本当のクリスチャンの小さなグループの仲間になることです。 この世界から抜け出しなさい! 信仰でもってイエスに来なさい! ローカルの教会の一員になりなさい。 そして、イエスの御血と正義でもって、いつ何時でも、そして永遠に救われなさい。

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。 主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

あなたが、信じ改心する者の一人になりますように! あなたが、福音のことばが説かれる時、そのことばを信じる数少ない者の一人になりますように。 あなたは、こう 言われるかもしれません、“はい、イエスは私の罪の罰を償うために死にました。 はい、彼は死からよみがえりました。 はい、私は信仰でもって彼に来ます。” “世の罪を取り除く神の小羊”(ヨハネによる福音書第1章29節)である、イエスを信頼することによって起こる救いを経験する時、あなたは主の腕があらわれた数少ない人の一人かもしれません。 あなたは、イエスに来て、彼の尊い御血でもって自分の罪から洗い清められ、彼の神聖な正義を着せられる、一人かもしれません。 あなた が私達の聞いたことを信じ、主イエス・キリストの救いの恵みを経験されますように! アーメン!

(説教終了)
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クレイトン L. チャン医士による説教前の聖書の朗読:
ヨハネによる福音書第11章38-53節;12章37-38節
ベンジャミン キンケイド グリフィス氏 (Mr. Benjamin Kincaid Griffith) による説教前の独唱:
“I Have Decided to Follow Jesus”

要 綱

絶された預言・ことば
(イザヤ書第53章からの説教、その二)

R. L. ハイマース, Jr. 神学博士 著

“だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。”(イザヤ書第53章1節)

(イザヤ書第52章14, 13節)

I.   最初に、キリストの地上での奉仕の間にわずかな人達が信じ
救われた。  ヨハネによる福音書第11章39, 43-44, 47, 53節;
12章37-38節; マタイに  よる福音書第9章35節。

II.  次に、十二使徒の時代にはわずかな人達が信じ改心した。 
ローマ人への手紙  第10章11-16節。

III. 最後に、今日、わずかな人達は信じ、改心している。
マタイによる福音書 第7章13-14節;
マルコによる福音書第16章15, 16節;
ヨハネによる 福音書第1章29節。